永遠の救人(スクード)

純愛小説です、主人公ゆりの愛は実るのか、それとも死があるのか

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105

エピローグ
沖縄の小さな島に、朝香の宮邸に似たアールデコ風の建物が建っていた。
広い敷地にはきれいな芝が植えられ、そこに置かれてあるガーデンチェアーにかすみゆりが座っていた。
腕にはまだ半年ぐらいの赤ん坊が抱かれていた。
ゆりは乳房をだして赤子に乳を含ませた。
爽やかな秋の風が吹いていた。
あれから1年が経過していた。
彼方から一人の人間が近づいていた。
葉子だろう。
昨日から親友の葉子がゆりの家に泊まっていた。
ゆりは宗像が選んだ島に、念願のすばらしい家を建てた。そしてその家で今宗像の子供を育てている。
葉子もこの島が気に入って移住するという。
新しい恋人とこの島で暮らすのだという。
ゆりは島に、屋外コンサート場を造った。
そのコンサート場で月一回のコンサートを開催している。
葉子もそのコンサート場を使い、定期的にコンサートを開催していた。ゆりは有望な若手に積極的にこのコンサート場を提供していた。
過疎の島だったこの島も今、ゆりの移住で活気を取り戻していた。
ホテルが建設され、やがて飛行場も造られる。
この島にはすべてのものがあった。都会の便利さは何もなかったが、島民の優しい笑顔があり暖かい触れあいが随所にあった。島を歩くたび、多くの島民がゆりに優しく接してくれた。
ゆりや葉子、若手の有望ボーカルを聴きに多くの人間が訪れ、幾多の恋が芽生えていた。

ゆりもまた新たな恋をしていた。
ゆりの家から男が一人出てきた。
男はゆりの処に行き、ゆりの顎を軽く持ち上げ、優しくゆりに口づけした。
男は宗像だった。
宗像は、事故でゆりに関する記憶を失っていた。
宗像も今新たな恋をしていた。かすみゆり、いや、今は宗像ゆりとなっている最愛の恋人に。二人は新たに始まった永遠の恋をしていた。

高橋葉子が近づいて口づけしている二人に言った。
「朝から暑いわね。」

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104

そのころ宗像はあの世への一本道を歩いていた。
両側に地平線の彼方まで続く、色とりどりの花が咲く一本道を宗像は歩んでいた。
数十m先に人影が見えた。
宗像は何も考えずにまっすぐ進み、その人影と遭遇した。
神々しい光に包まれた二人連れだった。
全身が金色の後光で包まれている。
片方は女性、片方は男性だった。
女性の方に見覚えがあるような気がしていたが、今の宗像には思考能力がなかった。あの世に続く道は、人間の思考能力を奪うように出来ている。美しすぎる花を見せて、心を奪い、現世に戻るのを防ぐ為である。
女性は宗像のかつての妻陽子だった。しかし、宗像は認識できなかった。
隣の男性は、彼岸の支配者、虚空蔵菩薩尊であった。
虚空蔵菩薩尊は宗像を留めて言った。
「これはルール違反なのだが、そちに選択の余地を与えよう。そちの思考能力を元に戻そう。」
そう静かに言った。
宗像に思考能力が戻り、宗像は目の前の女性を陽子と認識できた。
「陽子」
宗像には次の言葉が続かなかった。
長い間会いたかった陽子だった。その陽子を目の前に、宗像は胸がいっぱいだった。
同時に宗像は遠くから歌声が聞こえてくるのを感じた。歌声は耳で聞こえたのではなかった。宗像の心に直接響いていた。
かつて聞いたことのない様な、美しく澄み切った声だった。
最初、宗像はゆりの声だとは気づかなかった。
歌声の中にはゆりの想念が込められていた。
ゆりの曲に乗せて、
「のぶのり、戻ってきて。」
そういう思いが込められていた。
それを感じて宗像はゆりの歌声とはっきり認識した。
そしてその歌声は涙声になり、そしてさらに一つの想念が込められていた。

病室でゆりは歌い続けた。
その歌声は美しいという形容を通り越していた。一人が歌っているにもかかわらず、その歌声は二人の澄み切った魂のハーモニーに聞こえた。多分ゆりのお腹の児も一緒に歌っていたのだろう。
廊下にいる多くの患者が感動で涙すらこぼしていた。魂を揺さぶる天使の歌声は続いていた。
治って欲しいという優しい想念、
生き残れと言う力強い想念。
そして誰をも包み込む限りない暖かく優しい愛。
そうしたすべての愛がゆりの歌にあふれていた。
まさしく今のゆりは天使だった。
1曲、2曲、3曲とゆりは絶え間なく自分のすべてを解放していた。その歌声にすべての人間が感動し、他の階からも多くの人間が集まっていた。その声を聞いただけで、すべての病気が治癒しそうな癒しの歌声だった。
4曲、5曲、6曲と続くうちにゆりの歌声が涙声になっていた。しかし、それは聞く者の魂をさらに揺さぶる菩薩の涙声だった。
ゆりは歌い終えて、叫んだ。
「あなたあ〜〜〜、戻ってきて!あなたの子供が出来たの〜〜〜。お願い、もどってえ〜〜〜」
ゆりの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。その涙は宗像の顔に滴下した。
ゆりは堪えきれずに宗像の唇に自分の唇を重ねた。
























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103

医師が朝の回診に回ってきた。
ゆりは医師に
「今朝、反応がありました。私の手を握り替えしてくれたんです。」
そう告げたが、医師はあちこち宗像を診察した後に
「多分、反射か筋肉の収縮でしょう。極めて難しい状態です。」
そう言って出て行った。
そんなことはない。絶対にそんな事はないと信じるゆりだった。
しかし、1日が過ぎ2日が過ぎても宗像は目覚めなかった。
3日目の朝の回診で、主治医は首を振った。
すでに瞳孔反射がなくなっている。回復は絶望的だった。
「お呼びするご親族がいらしたら・・・・・・・・・・・・」
主治医はそう言って病室を出て行った。
ゆりはその声を空しく聞いていた。
空しい言葉だった。
宗像に対する死の宣告である。
それは同時にゆりに対する死の宣告でもあった。
医師が出て行ってドアが閉まった。
それまで留めていたゆりの感情が噴き出した。
「馬鹿、嘘つき。帰るって言ったでしょう。嘘はつかないって言ったでしょう。」
ゆりは叫ばなかった。
叫びたい衝動はあった。
ただ今は静かに宗像と語りたかった。
親族が部屋を出た。
ゆりと宗像を二人きりにしたかった。
ゆりは宗像との思い出を思い起こしていた。
出会った時の宗像。最初のデイト。群馬に行ったとき、追い出したとき。初めて一つになった時。新婚旅行。沖縄。屋久島、九州、小豆島、京都、山陰、四国、紀伊半島どれもこれも思い出がいっぱいだった。
何が一番心に残ったろう。
「花は何故、咲くのか?」
と聞いたこと? いや、
「儚いと言うこと」?、そうでもなかった。
いや、ゆりの心に一番残ったのは、
「あきらめるな」「俺が一緒に死んでやる」
その二言だった。
どんな時に、言われたんだっけ。
ゆりは必死で思い起こしていた。
「あきらめるな」って言われたのは・・・・・・・・・・・・
たしか、知り合いが事故で死にそうになった話だった。
そうだ、たしか「瞳孔反射がなくなって生き返った奴がいるから、最後の最後まで諦めるな」そう言われたんだ。ゆりははっきり思い出した。
そうだ、瞳孔反射がなくなったぐらいがなによ。
必ず宗像は生き返る。
あれは、「必ず、俺は生き返る」そういう合図だったはずだ。
宗像は生き返る、ゆりは確信した。
ゆりは大声で叫んだ。
「ばかあ〜〜〜〜〜。生き返れ!」
廊下にいた、母の澄子が驚いて中に入ってきた。
ゆりは宗像の手をしっかりと握って、自分の意志を宗像に注ぎ込んでいるようだった。
その直後、ゆりの喉に酸っぱいものがこみ上げてきた。
ゆりは口を押さえて、洗面所に入った。
ゆりの背中から母の澄子が介抱した。
ゆりは
「もしかして本当に胃ガン?」
そう思った。
宗像がいなくなり、自分も今度は胃ガン、助かりようがなかった。
しかし、それはそれでいい。宗像のいなくなるこの世に未練などない。一緒に行こう。あの世で本当に夫婦になろう。ゆりはそう考えていた。
ゆりの背後で介抱する澄子も別な意味で「もしかして」と思っていた。
澄子はゆりに聞いた。
「由紀子、宗像さんとは夫婦になったの?」
遠回しな言い方をした。
ゆりは、母に対して
「何を言っているの、きちんと戸籍は入れたわ。」
そう言った。澄子は苦笑しながら
「そうじゃあなくて、きちんと夫婦関係はできたの?」
夫婦関係?母は何が言いたいのか。
怪訝な顔で母を見る由紀子に澄子は
「赤ちゃんが出来たんじゃあない?」
「赤ちゃん?」
ゆりは大きい目をさらに大きくしてそれを聞いた。
考えもしなかった。しかし・・・・・・・・・・・・
宗像が沖縄に出かけてから生理はなかった。そう言われてみれば、妊娠、
そう思えた。
「由紀子、検査しましょう。」
子供、そして母になる。
つい数ヶ月前までは、考えられない事だった。
自分にはそんな幸せはないと数ヶ月前のゆりは思っていた。突然の幸せに戸惑うだけのゆりだった。
検査の結果、ゆりは3ヶ月だった。
うれしくもあった。
同時に、「もしかすると、本当の宗像の忘れ形見になる」という感覚もあった。
宗像は戻ってこれないのではないか。だからこそ、代わりに自分の胎内に忘れ形見を残すのではないか。この子は宗像の輪廻(ルフラン)ではないのか。そんな不安があった。
目の前で宗像は眠っている。
ゆりはずっと考えていた。
この子を父なし児にしたくなかった。戻ってきて欲しかった。
ゆりは病床でこんこんと眠る宗像に魂の叫びを伝えたかった。
自分の下腹部に宗像の掌をあてがい
「惟規、子供ができたのよ、貴方の子よ。お願い起きて、戻ってきて。」
ゆりは宗像の言葉を思い出していた。

『歌う君。それは永遠の俺のあこがれだから。
そして、それが俺を救ったものだから』

歌おう、宗像の心に、宗像の心に響く歌を歌おう。それが宗像の希望であり、宗像を呼び起こせるかもしれないゆりの唯一の希望だった。
ゆりは歌った。
魂で歌った。
ゆりの歌声が病室に響いた。
それは今まで誰も聞いた事のない神々しい声だった。
病室から漏れるゆりの天使の歌声に、多くの患者、医師、看護士が病室の入口に集まった。ゆりは今、天使と化して、宗像に届けるべく、生涯最高のコンサートを行っていた。
親友の高橋葉子ですら、こんな澄み切った歌声は聞いた事がなかった。葉子ですら感動する、そしてすべてを治癒する『天使の歌声』がゆりの心から解放されていた。

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102

廊下の長イスに座ってゆりは考えていた。
宗像とは対面した。呼びかけても何も答えない宗像だった。
揺り動かしても、手を握っても反応がなかった。
宗像が死ぬ。
そんな事を考えた事もなかった。
ゆりは、自分の死は何度も考えた。何度も死の淵まで歩もうとも考えた。
死の淵を脱したゆりは、宗像の死の可能性に直面していた。
宗像が死ぬ。
そんな言葉は、ゆりの頭の中にはなかった。
どうしていいのか全く分からなかった。
6時を少し回った頃、ゆりの母と弟がやってきた。
「ねえさん。」
弟の拓也はゆりにそう言って、言葉を失った。
呼びかけても何の反応もない姉の由紀子がそこに座っていた。
「ねえさん」
再び拓也は呼びかけた。
姉の由紀子はまるで無反応だった。
「由紀子」
そう強く呼びかける母にゆりはかろうじて反応した。ゆりは立ち上がり、母の胸に顔を埋めて、激しく泣きじゃくった。
廊下の彼方まで聞こえる声で、端も外聞もなくゆりは泣きじゃくった。
ゆりの母は、病室に入って宗像と対面した。血色は悪くはなかったが、宗像には死の影が漂っているように見えた。
宗像は死んでしまうかもしれない。
ゆりの母はそう思っていた。
宗像の死は則、由紀子の死に繋がる。
宗像が死んで由紀子が生きているとは思えなかった。
由紀子は宗像の後を追うだろう。
止めて止まるものではなかった。仮に止まっても、由紀子は再び癌に冒されよう。そうなれば、もはや手の打ちようはない。
仮に癌に冒される事がなくても、ゆりは抜け殻になろう。
そんな由紀子に生きろと言うのが残酷な宣言であることを母の澄子は良く知っていた。
宗像が旅立つときは、由紀子も共に旅立たせ、せめて同じ墓に埋葬してやるのが母の情だろう。自分にはそれしか出来ないと分かっていた。母の澄子は娘の由紀子にも死の影を見た。
由紀子の顔の翳りはそのまま死の翳りなのである。
なんと儚いのだろう。
由紀子は必死で生きてきた。
そして、必死すぎて癌になった。
死を考えて、死の淵に立ったことも何回かあるのだろう。
そこから、由紀子は復活した。
宗像という伴侶を得て、由紀子は復活した。
見事に癌を治して、回りの雑音もシャットアウトした宗像だった。
ついさっきまで、ゆりは大きな夢を見ていた。
永遠に続くであろう、幸せの永い永い夢を見ていた。
澄子にとって、聞かなくても、それは確かな確信だった。
家族である自分も自分の夫も、息子も同じ夢に浸って幸せだった。
その夢が足下から瓦解しようとしていた。大きな音を立てて。
天の配剤とすれば、余りにも残酷な調合だった。
神も仏もこの世にはいないのだろうか?
澄子は正直そう思った。
由紀子は憔悴しきっていた。僅かに数時間の事である。
その数時間で由紀子は別人のようになっていた。
祈るしかない。
今は祈るしか方法がなかった。宗像の運命を信じるしかなかった。
宗像は由紀子を何回も救っていた。それを信じて待つしかなかった。
それ以上に由紀子の体力が心配だった。絶望は恐ろしいほど体力の消耗を招く。希望を持たせるしか方法がなかった。
とりあえず、この大部屋では何も出来なかった。
澄子は病院と交渉して無理にでも個室に移った。
個室に移り、ベッドの脇で宗像を見守れるようになった由紀子は多少とも落ち着いていた。
先ほどほどの憔悴感はなくなっていた。澄子はゆりに食べるようにサンドイッチを買ってきた。ほんの一口だけ由紀子はサンドイッチを囓った。
そしてコーヒーをほんの一口飲んだ。
もっと食べるように言ったが、由紀子の胃は受け付けなかった。二口めには戻す由紀子だった。無理な捕食は返って由紀子の体力低減を招きかねなかった。澄子はその晩は由紀子に食べさせるのを止めた。

ゆりは宗像の傍らに座ってじっと宗像を見つめていた。
殆ど微動だにしないゆりだった。時折、瞬きしなければ、死んでいるのかとさえ思われるゆりだった。
もしも宗像の心臓が止まったら、一緒に死の旅路に赴くつもりのゆりだった。
ゆりは長いこと思考を止めていた。
自らの意志で止めたのではない。止まってしまったのである。
何かを考えれば、悪い方向にしか考えられなかった。怖いデジャブ(既存視覚)を何回か見て、ゆりは心を閉ざした。時折、遠い処から来る母の呼びかけにだけ反応して意識を取り戻すゆりだった。
ゆりは長いこと、宗像の手を握っていた。
暖かい手だった。
いつもと変わらない暖かい手だった。宗像の暖かさが伝わるのがゆりの今の生き甲斐だった。この暖かさがなくなったら、ゆりは生きてはいけない。
宗像の手の温かさはそのままゆりの生きている証明(あかし)でもあった。
ゆりは明け方までそのまま宗像の手を握っていた。
朝日が差し込んで、ふとゆりは宗像に手を握り替えされたように感じた。
「あなた〜〜〜〜。」
ゆりは絶叫していた。しかし宗像は目覚める様子はなかった。ただ、黙ってそこに寝ていた。
母親の澄子がその声で眼を覚ました。
「どうしたの?」
「今、この人が、手を握り替えしてくれた。」
目覚める、絶対に宗像は目覚める。それはゆりの確信だった。しかし、宗像は微動だにしなかった。相変わらずこんこんと眠っていた。
錯覚?
ゆりは一瞬そう思って否定した。
自分だけが分かる感覚である。唯一宗像の妻である自分だけが、身体を重ねた自分だけが分かりうる感覚だった。この瞬間、ゆりは『自分は宗像の妻なのだ』そう実感していた。
必ず宗像は目覚める
ゆりはそう思った。
ゆりは空腹を感じた。昨日の昼から何も食べていなかった。
気が付くと、宗像の弟もやってきていた。
ゆりは立ち上がり、外に出ようとした。
「由紀子、大丈夫?」
母が心配して聞いた。
「近くのコンビニでサンドイッチ買ってくる。」
ゆりはそう言って出て行こうとすると、母もついてきた。心配なのだろう。一人には出来なかったのだろう。自分は昨晩抜け殻のようになっていた。頭の中が真っ白で何も考えられなかった。さっき、宗像に指を握り返されて、自分を取り戻した。もう大丈夫と言いたいゆりだったが、母に甘えることにした。うれしかった。
サンドイッチを買って戻り、ゆりは少し食べた。
食べて、元気で宗像が目覚めるのを待たねばならない。
この人は必ず帰ると約束したのである。嘘は言わない人だった。
食べ終わって、30分くらいしてゆりは気分が悪くなって戻した。食べたサンドイッチを殆どすべて戻してしまった。苦しがるゆりを母は優しく介抱していた。
もしかして胃ガン?
ゆりにそんな不安がよぎった。
精神的に食べ物を受け付けないのか、どこかが悪いのかゆりは分からなかった。又、考えようとも思わなかった。今は目の前の宗像の目覚めを待つ。ゆりにはそれしかなかった。仮に癌でも宗像が治してくれる。自分のすべては宗像が管理していた。すべてを宗像に捧げたゆりだった。ゆりはただ待つしかなかった。

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101

最終章 魂のルフラン
3ヶ月がすぎて10月7日になっていた。
今日は宗像が戻ってくる。その待ち遠しい日だった。ゆりはさんざん迷った揚げ句、夕食のメニューを、ゆりの退院祝いに宗像が作ってくれた、ステーキのオレンジソースとオニオンスープそしてパインサラダに決めた。思い出のメニューだった。
最初こそ、さみしくて悪態をついた。しかし、毎日まめに電話をくれる宗像に感謝していた。長いような3ヶ月だったが、過ぎてみれば、あっという間であった。
そして今日がその待ちに待った日である。
嬉しくて夕べは眠れなかった。眼がはれぼったい。宗像は何というのか、こんなあたしをきれいと言ってくれるだろうか。
ゆりは朝から落ち着かなかった。宗像の帰りは夕方になる。船と飛行機を乗り継ぎ、ここには4時頃になろうと今朝の電話で連絡が入った。
今午後の3時20分だった。
携帯が鳴った。
「今、羽田だ、もう少しでそこに行く。たっぷり浮気していたから、浮気の検査はかんべんな。」
そう言って電話がかかってきた。
「たっぷり検査します。場合によっては、家に入れませんよ。」
お互いが軽口を言い合って、じゃれていた。
もうすこしだ、もう少しでいとしい宗像に会える、
そう思って心がわくわくするゆりだった。
3時50分頃、救急車のサイレンがけたたましく響いた。
いつも救急車はこの前を通る。しかし、やけにその音がけたたましく感じられた。その音に何かの胸騒ぎを覚えるゆりだった。
4時を回っても宗像は帰ってこなかった。10分過ぎ、20分過ぎ、そして4時半になり、ゆりは我慢しきれなくなり、宗像の携帯に電話した。発信音が鳴り始めた。1回、2回・・・・・10回鳴っても宗像は出なかった。16回目にやっと繋がった。
「あなた、なに・・・・・」
「はい」
ゆりは「何をやっているの」
そう言おうとして相手が宗像でないことに気づいた。
あきらかに「はい」と言う声は宗像のものではなかった。
「この携帯の持ち主の奥様ですか?」
電話の向こう側の声はそう言っていた。
誰?
ゆりは何がなんだか分からなかった。
再び電話の向こうで
「奥様ですか?」
そう問いかけていた。
「はい?」
ゆりはそれだけを言った。
「携帯の持ち主の方が事故で病院に運ばれました。私は病院の職員です。」
ゆりには何が起きたのか分からなかった。考えもしない出来事だった。
「・・・・・・・・・・・・・」
「もしもし。すぐに来てください。こちらは**病院です。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「聞こえていますか、こちらは**病院です。ご主人が事故なんです。重症です。すぐに来てください。」
「わかりました・・・・・・・。」
かろうじてゆりはそう言えた。
頭が何も考えられなかった。パニック状態だった。
どうすればいいのか?
病院に行かなければならない。
それは分かっていた。
分かっていて、頭が身体に命令できなかった。
携帯が鳴った。
着信音は母からの着信を教えていた。しかし、「母から」と考えられなかった。
「宗像の死」
携帯はそう告げているような気がして出ることが出来なかった。
携帯が切れ、そして再び鳴った。
「もしもし・・・・・・・」
ゆりは夢遊病のような状態で電話に出た。
「由紀子、宗像さんは戻った。」
母だと認識できて、ゆりは留めていた感情が迸った。ゆりは一気に声をあげて泣き出した。
「どうしたの、由紀子。」
「あの人が、あのひとが・・・・」
「宗像さんに何があったの?」
「事故で・・・・・」
「由紀子、しっかりしなさい。どこなの病院は、すぐに、すぐに行きなさい。お母さんも必ず駆けつけるから。」
ゆりは携帯を切ると、そのままバッグ一つを持って走り出した。
マンションの前でタクシーを拾うと
「**病院。」
そう告げた。
信号待ちがいらいらした。赤信号を突っ切ってほしかった。
それでも数分で病院に着いた。
受付で問い合わせるのももどかしく思いながら、ゆりは宗像のいるICUに向かった。ICUに行くと宗像は既に病室に入っていた。6人の大部屋である。
診察していた医師がいた。
40歳ぐらいで髭が生えている。眼鏡の奥の頼りない眼が信用できないような感じだった。
「宗像の家内です。」
ゆりはそう言った。医師はゆりをしげしげと見て、
「もしかしてかすみゆりさん?」
そう言った。先日の会見で短髪のゆりもすっかり目立つ存在になっていた。
「そうですけど、夫は?」
「外傷はありません。」
ゆりはほっとした。しかし次の言葉で自分を失いかけた。
「外傷はないのですが、脳を強打している可能性が高いのです。目覚めれば問題ありません。問題は目覚めないときは、植物状態、最悪、死の可能性もあります。」
不幸という名の顎がゆりの目の前にぽっかりと大きな口を開けていた。それはゆりの幸せをすべて飲み込む大きな顎だった。
ゆりは目の前が暗くなった。
思わず倒れそうになったゆりを傍らの女の看護士が支えてくれた。
立ち直るゆりは、何も考えられなかった。
唯一宗像の事以外は・・・・・・・・・・・・・・・

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